2月に心を過ぎること
2月には忘れられない思い出があります。ボストンから戻って9ヶ月たった1998年2月3日のことです。日赤に入院中の夫はアスペルギルスによる肺炎のために高熱が続いておりました。夫に付き添って泊り込んでいました私は、3日の朝、夫を担当していた医師達に呼ばれました。医師達の話の趣旨は「肺の症状の改善が見られない上に治療に使っているアンフォテりシンの副作用によって腎臓が持ちこたえる限界を越えている。薬の使用の中止を認めてほしい」というものでした。アンフォテリシンは唯一のアスペルの治療薬です。それを止めるということは、とりもなおさず夫の命を諦めてほしいという意味でした。夫が必死に頑張っているのにです。医師の判断は危険信号を出している腎臓の検査結果や全身状態の悪化に重点を置いたものでした。でも私は承服出来ません。夫は今までも諦めることなく、ずっと辛い治療に耐えて、病と闘い続けてきたのです。危ない橋を渡ることを恐れて命の尽きるのを何もせず待つような選択をする人ではありません。本人の意志を聞いてほしいという私に医師達は首を縦に振りません。ですから私が代わりに答えました。「腎臓がこれ以上の薬の使用に耐えられるか否かはやってみなければわからない。夫は治るという信念で闘っている。今の量で効果が無いのであれば、薬の量をもう少し増やして続けてほしい」と。その直後から薬の量が増やされました。医師達の懸念通りであれば、夫の腎臓は更に悪化し、肺の症状の改善は期待できないということです。最悪のことを覚悟して、私はまんじりともせず夫の傍で検温を繰り返しておりました。糸がピンと張り詰めたような一晩でした。4日の明け方4時頃、体温計を見て私は自分の目を疑いました。今まで38度台を下らなかった数値が37、2度を示していたのです。大量のアンフォテリシンがさしもの頑強なアスペルギルス菌を遂に撃退してくれた瞬間でした。寝もやらず父を見守っていた次男、娘と共に、歓声をこらえながら手を取り合いました。夫の頑張りと私達の祈りが天に通じたのでしょう。「奇跡」という言葉が私の心に添いました。折しも誕生日をその日に迎えた次男にはこの出来事はこの上もない贈りものとなりました。そして3日にボストンへ戻る飛行機をキャンセルして父に付き添った娘は、地獄の後に齎された福音に安堵してその日のうちに戻って行きました。2月4日春立つ朝に病室の窓から仰いだ金色の輝きは、忘れられない2月の彩りとなりました。
2009年2月6日 2階の窓から
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