1月の彩り 新しい年が明けました。新春の朝の気分の爽やかさは年を重ねても変わることなく、元気でいることの喜びも何時にもましてありがたいことに感じられます。昨年の暮から年明けまでずっと晴天に恵まれて、穏やかな良いお正月となりました。先ずは幸先の良い「季節の贈りもの」ということのようです。イヴェントフルな季節、1月ならではの彩りを綴ってみたいと思います。
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1946年清水 終戦の年の4月から12月までの8ヶ月を信州の父方の祖母の家で過ごしました。戦時中、私は父が勤める日立製作所清水工場(静岡県)の社宅に住んでいました。日立で何を作っていたのかは私達には知らされませんでしたが、工場はB29の標的の一つになっていたようです。工場の近くが住まいの私達も日夜その爆撃に晒されて、明日の命も知れない状況下にありました。両親は、1歳の子供だけを手許に置き、6歳と4歳の娘と息子を信州に送るというつらい選択を余儀なくされたのだと思います。低空飛行するB29の影が防空壕の入り口を暗くし、凄まじい爆音と衝撃が壕を揺さぶる中で、子供の肩を抱き寄せながら母が「死ぬ時は皆一緒だから淋しくないのよ。でもごめんなさいね」と言ったこと、家族と離れた疎開先で泣き止まぬ弟を抱きしめながら夜を過ごしたことをふとした時に思い出します。小学校へ入ったばかりの私が何をどう感じていたのか、感覚的には何も覚えてはいないのです。でも終戦を迎た年の12月に、迎えに来てくれた父と、駅までの道を手をつないで歩いた時の幸福感を思えば、その日々はつらいものだったのかもしれません。そしてようやく迎えた家族揃ってのお正月、食糧難の時期でしたから、お節料理が整っていたとはとても思えませんのに、思い出す光景はばら色に輝いているのです。母はきっと配給のお米やお砂糖を使って、精一杯のご馳走を用意してくれたのでしょうし、海、山が近くに控える温暖な土地柄は、その時代でさえもその恵を享受できる環境でもあったのでしょう。それ以降過ごした60回を越えるお正月の中でも際立って豊かな記憶として残っています。でもご馳走よりも何よりも幸せだったのは、父、母と3人で松の内の夜毎にトランプゲームを楽しんだことなのです。弟達が寝静まるのを待って、父が「そろそろ始めましょう」と声を掛け、それに母がいそいそと応えて、3人でコタツを囲みました。それは「ババ抜き」とか「神経衰弱」とかいった、子供だましではなく、私も一人前に勝負を競う「2・10・J」でした。ゲームは3人以上でなければ出来ませんから、私は両親にとっても必要なメンバーだったわけです。そのことを感じ取って私は誇らしさに有頂天になりました。両親を失望させまいとルールもしっかり覚え、大人になった気分で両親に対しておりました。母28歳、父35歳とまだ本当に若かった両親にとっても、厳しい戦後の生活の中で得た、ほんの束の間の華やいだ憩いの時間だったのに違いないと思います。3人で共有したこの思い出も今では母と私だけのものになってしまいましたけれど、お正月の訪れと共に、あの暖色に包まれた情景が鮮やかに蘇り、心に火を点してくれます。 1963年宇部 1962年に婚約しました時、謙治郎の両親から招待を受け、1963年のお正月を彼の郷里宇部(山口県)で過ごすことになりました。新幹線も宇部行きの飛行機も勿論無かった時代ですから、寝台特急「あさかぜ」で小郡まで、更に宇部線へ乗り換えての十数時間の長い旅でした。京都から西には行ったことの無かった私には言葉の訛り、イントネーション、通じない方言、始めて接する風習、何もかもが珍しく、目を見張ったまま過ごしたような1週間でした。東京の私の家での暮は家族こぞって大掃除やガラス拭きに精を出し、大晦日は家族だけで「お年越し」の料理と団欒で過ごすのが慣わしでした。一方、宇部の新田では、掃除、買い物、料理は姑を中心とした女性だけが担い、男性はもっぱら暮の挨拶回りに出ておりました。そして大晦日には、親類縁者がこぞって集いテーブル一杯のご馳走にお燗をつけ、飲んで唄って踊っての宴でした。そして年が明けての元旦は、私の里ではお屠蘇とお節で祝った後、初詣。午後からは年始のお客様を迎えましたが、夜は家族でカードやマージャンなどで過ごしました。そして2日は親戚、友人を招いての「百人一首」の会と決まっていたのです。新田家はと申しますと、元旦早朝に長男が若水を取り、神様に供えてから家族揃っての祝い膳。それから表の玄関を大きく開け放ち、12畳の座敷2間をぶち抜いて、そこに長い机を20本ほど並べ、座布団を敷いていきます。姑が用意した数種の酒の肴を形良く並べた塗りの小皿に杯と箸を添えて銘々の席に置き、初詣客を迎える準備は完了です。8時頃から来客が来始め、ひっきりなしに続きます。その間舅は他家への初詣で留守ですから、来客は姑が手際よくお相手をして捌いていきます。それは見事という他無く、慣れないお酌に「愛想が無い」と叱られて「酔っ払いはこれだから嫌い」と思いつつ、この家で嫁として勤まるのかしら、とても義母の真似は無理と不安になったりも致しました。元旦には百人ほど、2日、3日と次第に来客は少なくなって行きますけれど、女性は働き詰め、勿論カードも百人一首もする閑はありません。正月料理の内容も大きく異なりました。先ずはお雑煮から。宇部の新田では自家製の丸餅と蕪をいりこ(煮干)と共に水から茹で、餅が柔らかくなったところにお醤油を入れて味付けします。私の里では切り餅を焼き、湯をくぐらせてお椀に入れ、そこに短冊切りの大根、人参、蒲鉾、小さい鶏肉の入った澄まし汁を張り、三つ葉、柚子を添えます。父も母も祖先を信州に持ち、東京住まいでしたから、おそらく東京と長野のミックスした形なのでしょう。お節に関しては、定番の蒲鉾、数の子、昆布巻き、紅白ナマス(宇部:菊華蕪)、煮物(宇部:煮〆)等共通点も多いのですが、お酒飲みの多い宇部新田には、甘味の入った伊達巻、田作り、煮豆、きんとんといったものは一切ありませんでした。そして加わるのが、鰤、鯛の刺身、ふく(河豚のことを福に因んで)の煮こごりなど海の幸、一方里ではローストビーフ、チキン、ロースハムといったものとなります。宇部の圧巻は、姑自ら捌くふく(河豚)の菊作り、染付け皿の藍が透けて見える程に薄切りのふくの身は、白い菊の花びらのように美しく、豪華でした。それに姑の巻く実だくさんの巻き寿司とかやく寿司(宇部では、おかやくと言います)は何十年を経ても未だに近づけない技と味です。今は舅も夫も旅立ち、あの頃の華やぎも夢のように消え去りました。でも年頭の朝、ピンと張った空気に身を置きながら清々しい青空を仰ぐとき、あの頃のきらめきが香りや賑わいを伴って蘇り、大切な人々と良き思い出とに守られている心強さを感じます。
1992年ボストン 日本でのお正月に着物をきて来客を迎えることなどありませんでしたのに、ボストンで迎えた1992年のお正月は、三が日を着物で過ごしました。親しくなったアメリカの友人達を連日招待して、日本のお正月を紹介するためにです。お餅が苦手なアメリカ人に配慮して、お雑煮は止めて、主食はちらし寿司とうなぎ(アナゴが在りません)寿司、柚子の代わりにライムを使い、鰤の代わりにイエローテイルを使い創作御節を作りました。それでも日本食店には、貧相な数の子や薄い塩鮭がありましたし、ファームに行けば、大根やしいたけ、なっぱ(小形の白菜もどき)が手に入りました。それに醤油と味噌と米酢は魔法の調味料のように、現地の食材を日本の味にかえる力強い味方でした。アメリカ人に特に好評だったのは、うなぎの細切りと錦糸卵を乗せた寿司ご飯と柚子釜ならぬライム釜に蓋を被せて供した大根、人参の紅白なます、数の子のマヨネーズ和え(日本風の味付けの数の子は彼らは食べません)、そしてイエローテイルの照り焼きでした。ディナーの仕上げには何時も茶室(?)で点前を披露しました。日本から持参の緋毛氈を敷き、夫が白木で作ってくれた風炉先を設えた臨時の茶室は、掛け軸を掛け、花を生ければそれなりの雰囲気を持った茶室が演出できました。正座の出来ないアメリカ人はそれぞれに足を投げ出したり、中腰になったりしながらも熱心に点前を眺め、お菓子やお茶を興味深げに味わってくれました。抹茶を美味しいと言った人は居ませんでしたけれど、和菓子は好評でした。「Rickie(私のニックネームです)は料理が上手」と実態とは異なる評価にすっかり気を良くして、その後も何回か会席料理(懐石料理は出来ませんでしたが)を振舞いました。帰国してからはお正月に大勢のお客をしなくなりましたのは、この時期にやる気をすっかり使い果たしてしまったのかもしれません。家族へのお節作りだけは、今も気を抜かずに作り続けてはおりますが。 |
![]() 松が取れましたから、リースを白薔薇に作り変えました。春の訪れを待ちわびる思いを込めて。 このリースは、娘がボストンから届けてくれたものを土台にしています。真ん中の家だけは動 かしませんが、他は四季折々に入れ替えて、その季節の雰囲気を楽しみます。 |
冬の彩り、椿です。
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1月17日撮影
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