季節の贈りもの
1月の彩り

 新しい年が明けました。新春の朝の気分の爽やかさは年を重ねても変わることなく、元気でいることの喜びも何時にもましてありがたいことに感じられます。昨年の暮から年明けまでずっと晴天に恵まれて、穏やかな良いお正月となりました。先ずは幸先の良い「季節の贈りもの」ということのようです。イヴェントフルな季節、1月ならではの彩りを綴ってみたいと思います。
 


 
お正月飾り

新春を寿ぐお正月飾りは、どちらのご家庭でも古くからの慣わしごととして心を込めてなさっていらっしゃることと思います。私も物心つく頃から、この季節の非日常性が大好きで、心を躍らせながら忙しい母の後について廻っておりました。母が準備に入る年の瀬には、先ず門松が立てられ、清められた部屋の床の間には生け花(松、梅、千両、菊、葉牡丹等々)や鏡餅が置かれました。あの頃の胸が高鳴るような期待感は何十年を経ても、この時期の訪れと共に蘇ります。


松飾
門松の代わりに、松のリースを作るようになりましたのは、2000年のお正月からです。1997年5月、夫はボストンの赴任を終え帰国したその足で、成田から日赤医療センターに入院しました。ボストンを立つ1週間前に発熱し、38度を下らない熱に体力を消耗しきっての帰国でした。病名はアスペルギルス、肺に真菌が巣食う、完治は困難と言われた難病でした。劇薬とラベルに表示されたアンフォテリシンという薬を点滴しての1年4ヶ月の月日を耐えて、1998年9月に一旦退院しました。それより1ヶ月前の8月から始まっていました家の建替工事のために、仮住まいの生活への帰宅でした。そして新築の家への引越しが1999年2月。ですから2000年は新しい家での始めてのお正月でした。家族が揃って元気に新年を祝うことが出来る喜びは何時にも増して大きく、準備にも力がはいりました。それから今年で10回めのお正月ということになります。2005年娘の結婚、夫の旅立ち、2007年孫の誕生と大きな変化はありましたけれど、新年を迎えますと、気持も新たに、今年の良き日々を祈り、家族揃っての新春を祝います。夫も以前と同じように共に席に着いていると感じながら。

(年神様の依代を新年の前日になって飾るのは礼を失することだと母に教えられました。一夜飾りを避けて、この度も12月30日に飾りました。本当は12月13日以降29日を除いて30日までにということのようですが、いつもぎりぎりです。)


玄関の飾り棚
中央の白梅は入手してから3年になります。丁度良い具合に年明けと共に花がほころび始め、3日にはほぼ満開となりました。外の寒さに耐えていましたから、家に入ってほっとしたのでしょう。小ぶりの鉢の南天は紅葉の最中、実生の松も順調に10cmほどに育ちました。その他にも小さな笹と万両を植え込んであります。来年はどの位成長しているかと楽しみです。
玄関ショーケース

ショウーケースの中から
このショーケースは4面と棚板がガラス製のため個々のオーナメントは場所を替えて撮りました

獅子頭

干支「丑」


獅子舞

手毬

初舞

和室(床の間と違い棚)

床の間 掛け軸:松風颯々聲  花:白菊、千両 花器:白萩 
違い棚:香盆 香炉 七宝赤冨士 藁の輪 鷹の一刀彫り 竹人形 破魔矢 

 
お節料理

   夫の祖父母の代に整えたと伝えられる七重の杯と
瓶子、五重の重箱。1996年夫の父が他界しました
後、夫へと引き継がれました。我が家にはお蔵が在り
ませんから、日ごろは押入れの奥に眠っていますが、
この時期には必ず桐の箱の中から姿を表します。
収める時は骨が折れます。汚れを落とした後はぬるま
湯で湯煎してから拭きは最低3回と姑から教えられ
ました。今もちゃんと守っています。

毎年12月31日をお節を作る日と決めています。今は
家族が総出で手伝ってくれますから料理が終る時間
も早くなりました。子供達が幼かった頃は、除夜の
鐘がなる頃まで台所に立って準備をしたものです。
盛り付けは、今年も元日の朝に5時起きしてしまし
た。いつも眠る時間は殆どありません。料理は家族
それぞれの希望を入れていつも30種ほどになりす。
伝統的なお節ではありませんが。

 
思い出の中のお正月

1946年清水

 終戦の年の4月から12月までの8ヶ月を信州の父方の祖母の家で過ごしました。戦時中、私は父が勤める日立製作所清水工場(静岡県)の社宅に住んでいました。日立で何を作っていたのかは私達には知らされませんでしたが、工場はB29の標的の一つになっていたようです。工場の近くが住まいの私達も日夜その爆撃に晒されて、明日の命も知れない状況下にありました。両親は、1歳の子供だけを手許に置き、6歳と4歳の娘と息子を信州に送るというつらい選択を余儀なくされたのだと思います。低空飛行するB29の影が防空壕の入り口を暗くし、凄まじい爆音と衝撃が壕を揺さぶる中で、子供の肩を抱き寄せながら母が「死ぬ時は皆一緒だから淋しくないのよ。でもごめんなさいね」と言ったこと、家族と離れた疎開先で泣き止まぬ弟を抱きしめながら夜を過ごしたことをふとした時に思い出します。小学校へ入ったばかりの私が何をどう感じていたのか、感覚的には何も覚えてはいないのです。でも終戦を迎た年の12月に、迎えに来てくれた父と、駅までの道を手をつないで歩いた時の幸福感を思えば、その日々はつらいものだったのかもしれません。そしてようやく迎えた家族揃ってのお正月、食糧難の時期でしたから、お節料理が整っていたとはとても思えませんのに、思い出す光景はばら色に輝いているのです。母はきっと配給のお米やお砂糖を使って、精一杯のご馳走を用意してくれたのでしょうし、海、山が近くに控える温暖な土地柄は、その時代でさえもその恵を享受できる環境でもあったのでしょう。それ以降過ごした60回を越えるお正月の中でも際立って豊かな記憶として残っています。でもご馳走よりも何よりも幸せだったのは、父、母と3人で松の内の夜毎にトランプゲームを楽しんだことなのです。弟達が寝静まるのを待って、父が「そろそろ始めましょう」と声を掛け、それに母がいそいそと応えて、3人でコタツを囲みました。それは「ババ抜き」とか「神経衰弱」とかいった、子供だましではなく、私も一人前に勝負を競う「2・10・J」でした。ゲームは3人以上でなければ出来ませんから、私は両親にとっても必要なメンバーだったわけです。そのことを感じ取って私は誇らしさに有頂天になりました。両親を失望させまいとルールもしっかり覚え、大人になった気分で両親に対しておりました。母28歳、父35歳とまだ本当に若かった両親にとっても、厳しい戦後の生活の中で得た、ほんの束の間の華やいだ憩いの時間だったのに違いないと思います。3人で共有したこの思い出も今では母と私だけのものになってしまいましたけれど、お正月の訪れと共に、あの暖色に包まれた情景が鮮やかに蘇り、心に火を点してくれます。


1963年宇部

 1962年に婚約しました時、謙治郎の両親から招待を受け、1963年のお正月を彼の郷里宇部(山口県)で過ごすことになりました。新幹線も宇部行きの飛行機も勿論無かった時代ですから、寝台特急「あさかぜ」で小郡まで、更に宇部線へ乗り換えての十数時間の長い旅でした。京都から西には行ったことの無かった私には言葉の訛り、イントネーション、通じない方言、始めて接する風習、何もかもが珍しく、目を見張ったまま過ごしたような1週間でした。東京の私の家での暮は家族こぞって大掃除やガラス拭きに精を出し、大晦日は家族だけで「お年越し」の料理と団欒で過ごすのが慣わしでした。一方、宇部の新田では、掃除、買い物、料理は姑を中心とした女性だけが担い、男性はもっぱら暮の挨拶回りに出ておりました。そして大晦日には、親類縁者がこぞって集いテーブル一杯のご馳走にお燗をつけ、飲んで唄って踊っての宴でした。そして年が明けての元旦は、私の里ではお屠蘇とお節で祝った後、初詣。午後からは年始のお客様を迎えましたが、夜は家族でカードやマージャンなどで過ごしました。そして2日は親戚、友人を招いての「百人一首」の会と決まっていたのです。新田家はと申しますと、元旦早朝に長男が若水を取り、神様に供えてから家族揃っての祝い膳。それから表の玄関を大きく開け放ち、12畳の座敷2間をぶち抜いて、そこに長い机を20本ほど並べ、座布団を敷いていきます。姑が用意した数種の酒の肴を形良く並べた塗りの小皿に杯と箸を添えて銘々の席に置き、初詣客を迎える準備は完了です。8時頃から来客が来始め、ひっきりなしに続きます。その間舅は他家への初詣で留守ですから、来客は姑が手際よくお相手をして捌いていきます。それは見事という他無く、慣れないお酌に「愛想が無い」と叱られて「酔っ払いはこれだから嫌い」と思いつつ、この家で嫁として勤まるのかしら、とても義母の真似は無理と不安になったりも致しました。元旦には百人ほど、2日、3日と次第に来客は少なくなって行きますけれど、女性は働き詰め、勿論カードも百人一首もする閑はありません。正月料理の内容も大きく異なりました。先ずはお雑煮から。宇部の新田では自家製の丸餅と蕪をいりこ(煮干)と共に水から茹で、餅が柔らかくなったところにお醤油を入れて味付けします。私の里では切り餅を焼き、湯をくぐらせてお椀に入れ、そこに短冊切りの大根、人参、蒲鉾、小さい鶏肉の入った澄まし汁を張り、三つ葉、柚子を添えます。父も母も祖先を信州に持ち、東京住まいでしたから、おそらく東京と長野のミックスした形なのでしょう。お節に関しては、定番の蒲鉾、数の子、昆布巻き、紅白ナマス(宇部:菊華蕪)、煮物(宇部:煮〆)等共通点も多いのですが、お酒飲みの多い宇部新田には、甘味の入った伊達巻、田作り、煮豆、きんとんといったものは一切ありませんでした。そして加わるのが、鰤、鯛の刺身、ふく(河豚のことを福に因んで)の煮こごりなど海の幸、一方里ではローストビーフ、チキン、ロースハムといったものとなります。宇部の圧巻は、姑自ら捌くふく(河豚)の菊作り、染付け皿の藍が透けて見える程に薄切りのふくの身は、白い菊の花びらのように美しく、豪華でした。それに姑の巻く実だくさんの巻き寿司とかやく寿司(宇部では、おかやくと言います)は何十年を経ても未だに近づけない技と味です。今は舅も夫も旅立ち、あの頃の華やぎも夢のように消え去りました。でも年頭の朝、ピンと張った空気に身を置きながら清々しい青空を仰ぐとき、あの頃のきらめきが香りや賑わいを伴って蘇り、大切な人々と良き思い出とに守られている心強さを感じます。



1992年ボストン

 日本でのお正月に着物をきて来客を迎えることなどありませんでしたのに、ボストンで迎えた1992年のお正月は、三が日を着物で過ごしました。親しくなったアメリカの友人達を連日招待して、日本のお正月を紹介するためにです。お餅が苦手なアメリカ人に配慮して、お雑煮は止めて、主食はちらし寿司とうなぎ(アナゴが在りません)寿司、柚子の代わりにライムを使い、鰤の代わりにイエローテイルを使い創作御節を作りました。それでも日本食店には、貧相な数の子や薄い塩鮭がありましたし、ファームに行けば、大根やしいたけ、なっぱ(小形の白菜もどき)が手に入りました。それに醤油と味噌と米酢は魔法の調味料のように、現地の食材を日本の味にかえる力強い味方でした。アメリカ人に特に好評だったのは、うなぎの細切りと錦糸卵を乗せた寿司ご飯と柚子釜ならぬライム釜に蓋を被せて供した大根、人参の紅白なます、数の子のマヨネーズ和え(日本風の味付けの数の子は彼らは食べません)、そしてイエローテイルの照り焼きでした。ディナーの仕上げには何時も茶室(?)で点前を披露しました。日本から持参の緋毛氈を敷き、夫が白木で作ってくれた風炉先を設えた臨時の茶室は、掛け軸を掛け、花を生ければそれなりの雰囲気を持った茶室が演出できました。正座の出来ないアメリカ人はそれぞれに足を投げ出したり、中腰になったりしながらも熱心に点前を眺め、お菓子やお茶を興味深げに味わってくれました。抹茶を美味しいと言った人は居ませんでしたけれど、和菓子は好評でした。「Rickie(私のニックネームです)は料理が上手」と実態とは異なる評価にすっかり気を良くして、その後も何回か会席料理(懐石料理は出来ませんでしたが)を振舞いました。帰国してからはお正月に大勢のお客をしなくなりましたのは、この時期にやる気をすっかり使い果たしてしまったのかもしれません。家族へのお節作りだけは、今も気を抜かずに作り続けてはおりますが。


 
「松の内」が終って(1月7日)

松が取れましたから、リースを白薔薇に作り変えました。春の訪れを待ちわびる思いを込めて。
このリースは、娘がボストンから届けてくれたものを土台にしています。真ん中の家だけは動
かしませんが、他は四季折々に入れ替えて、その季節の雰囲気を楽しみます。

 
1月の陶作品から
冬の彩り、椿です。


壁掛け
湯飲み(志野)


 
1月の庭



つい一ヶ月前まで深紅に彩られていた楓が今はすっかり
寒そうな姿になりました。でも目を凝らせば、枝々に次の
季節のための小さな芽が用意されているのが見えます。

4月には白い大輪の花が鞠のように咲く
石楠花です。例年よりもずいぶん早く、
もうこんなに大きな花芽をつけています。

12月始めにに美しく紅葉した燈台躑躅は月半ばに
すっかり枯れ落ち、月末に朱赤の芽吹きが始まりました。

師走から続いた穏やかな気候を春の到来と
勘違いしたのかつつじの花が咲き始めました。

10月に咲き、一旦花の終ったコンギクが
年明けから又咲き始めました。

周りは楓の落ち葉に埋もれていますけれど、
さくら草と花簪は花盛りです。

1月17日撮影

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