2012年夏(6月〜8月) ちょうどその頃、澄んで深い碧の空が続くボストンにいた私にはピンとこない天気情報でしたが、成田に着いた途端 に体を包んだ湿った空気に一気に梅雨を思い出しました。 しとしと雨の日は少な くて、どっとまとめて降る陽性の梅雨だったのですが、末期の大荒れは九州に大きな爪跡を残しました。ようやく梅雨が明けたのは7月21日、一気に猛暑が やって来ました。 30℃は当たり前、35℃越えも珍しくない日々でしたけれど、避暑のために信州に滞在中の母が現地での入院とい う事態も あって、暑さにへばっている間も無く、あれよあれよという間に8月は過ぎて行きました。 |
ボストンの日々(5月
28日〜6月12日)
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6月の花壇
帰宅の翌日母を訪ねました。元気な母に会い安心して、ご近所に帰宅の挨拶をした後,真っ先に手を付けたのが庭の手入れでし
た。花壇にはもう夏の花が咲き始めていましたけれど、留守の間に傷んだものも沢山ありましたから、それらを刈り込んだり、隙間に 苗を足したり。 こうして初夏の花壇がなんとか形を成しました。春の花忘れな草がまだ盛大です。 |
会津若松を旅して(7月16〜18日)
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母と
過ごした信州の日々(8月5日〜9 月5日)
電話のベルで目覚めて、時計を見れば午前1時過ぎ(8月5日のことです)。義妹の「こんな時間に済みません」の声は消え入りそうに沈んでいて、「母に何
かあったのでは」ととっさに思いました。母と弟夫妻が蓼科に発ったのは8月1日のこと。4日に「先祖のお墓参り
をしてきたのよ」と、元気な声で電話があったばかりです。やはり緊急事態でした。「昨夜遅くに救急車で入院して、診察の結果は肺炎とのことでした」と義妹
の声は続きます。義妹の緊迫感が伝わって私も
しばらくは、わなわなとして考える力も行動する力も失せていました。父の入院、そして病名の肺炎が符合して、気持の落ち着きを完全に失っていたのです。
次男を起こし、長男と娘、弟と電話をする内に、自分のすることが決まりました。丁度この日蓼科に行くつもりで取って
あった「あずさ」をキャンセルして、弟の車で4時過ぎに出ることになりました。道中の心ここに非ずの状態は病室の母
を見た途端に解消されました。母が思ったよりずっと元気だったからです。心臓にも腎臓にも以前からかなり深刻な症状
があったのですが、その数値を聞き、それは母がずっと抱えてきている状況を越えていないことはすぐ分りました。担当
の医師が実に細やかな配慮をして下さる方で、住まいの近くのホームドクターとすぐに連絡を取り、今後の見通しも明確
に伝えて頂
けたのは本当に有難いことでした。2日目からリハビリの手配もして頂き、気配りの行き届いたリハビリ療法士の方を派遣しても下
さいました。弟夫妻の1ヵ月に及ぶ献身的な看病、兄弟の協力、母の体力、精神力、幸運、全ての事が助けになって、
母は 一ヵ月の闘病の後に元の生活に戻ることが出来ました。父の守があったに違いないと私は信じています。
信州へは5回赴きました。2泊、1泊、日帰りといろいろでしたから母の許で看病したのは通算10日ほど、1ヵ月休み もせずに付き添ってくれた義妹と弟には頭が下がります。長男が迎えに来てくれたり、送ってくれたりが4回ほどあっ て、それにも随分助けられました。信州へ行き来の折々の一コマです。
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6 月、7月、8月 庭木の花と宿根草 例年を上回る暑さが続いたこと、留守がちで水遣りが行
き届かなかったことなど
庭の花達には気の毒な夏の日々でしたけれど、それでも健気に、庭を守ってくれました。
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