やきものとの出会い 

  茶室で好ましい茶陶器に接する度に、自分の手でも作ってみたいと思いながらも、その機会にはなかなか恵まれ
 ませんでした。

  4歳の時から小さな道具を用意してもらい、母の手ほどきでお茶に親しんでいた娘もいつの間にか私と同じ思いを
 抱いていたのでしょう。 
 10歳になった頃のある日、学校帰りに、陶芸教室の看板を見つけたと娘が、息せき切って帰宅しました。
 早速二人で教室に赴き、看板を掲げて2日目というその陶芸教室の私たちが最初の生徒となりました。
 1979年、もう30年も前の出来事です。

  もの作りが大好きで、手先も器用な娘は、次々に素直な可愛い作品を作り上げていきました。
 それに引き換え、私にはこの時期にこれといった思い出に残る作品が少なく、箱詰めにしたままになっているものが
 殆どです。

  やきものは土と炎の世界といわれますが、陶芸教室で自ら関れるのは釉薬を施す所まで。
 後は焼き上がるのを待つだけで炎の部分に手出しは出来ないのです。
 肝心の部分を人の手に委ねて出来上がった作品にはどうしても自分で作ったという実感が湧きません。

  もどかしさの解消には自分で窯を持つ以外にはないと、土いじりを始めて1年経つ頃から、自分の窯を持つことを
 考え始めました。
 無謀にも高さ1メートル強もある灯油窯を購入することに決めて、屋根と煙突を大工さんにつけてもらい、
 土や釉薬を数種類揃えて、教室から独立したのは2年半後の1982年ことです。

最初に購入した灯油窯

 


灯油窯で最初に焼いた作品
楽の平水指 蓋は替蓋
幅最大33cm 高さ13,5cm

  
  土練りや手捻り、ろくろの使い方、土の削り方など、土いじりの基本の技術はこの2年半の間に何とか
 手にしていました。
 でも窯焚きの経験が皆無で一人やきものを始めたのですから、分からないことだらけ、
 頼りにするのは本だけということになりました。
 本を片手の手探り陶芸は、ボストンに行くまでの10年間続きました。
 師を持たないということは、勝れた作品が出来る過程を見る機会もなく、豊富な経験や技術を伝えられる機会も
 無いということになります。
 作陶展で優れた作品を観て歩くことは欠かせないことでした。
 形や釉薬の色、掛かり方などを頭に入れ、デッサンをし、試し、試しの繰り返しです。
 失敗を繰り返す中からほんの少しの技術やコツを探り当て、自分の物に出来たと思えた時は幸せでした。

  大いに張り切って始めた一人歩きでしたが、技術力、知識不足に加えて、結果としては窯の選択も失敗でした。
 灯油の大窯は、窯内が広すぎて、そこを作品でいっぱいにするには時間が掛かり過ぎ、火入れの機会が少ない
 こと、一人で長時間の窯焚きをするのは非常な労力を要することを思い知らされました。

  大量の時間を注ぎ込んだにも拘らず、技術はいつまでも未熟で、使い物になる作品がいたって少ないのは、
 下地作りに充分な時間を割かなかったことと真摯に人からに学ぶ姿勢に欠けていたことに因ると思っています。

  大窯の他にもう一つ、小型の電気窯を手に入れたのは1985年のこと。

電気窯第一号

初窯で焼いた逆さ馬の湯呑
(内側に逆さ馬:うまを逆に
読むと「まう」。これは「舞う」
を連想させ、縁起が良い由)

  それからは窯焚きの回数が増え、試し焼きも格段に楽になりました。
 焼き味がちょっと硬めなのは難点でしたが、作品が増えるにしたがって、少し自信のようなものが付き、なんとか
 やっていけそうな気持になりました。
 (この窯はボストンまで持って行き、大いに活用し、25年経った今も使っています。2度大きな修理をしましたが。)

  この時期は、陶作のことがいつも頭から離れず、家事をしながらも、生徒を見ながらも、いつも窯に火を入れて
 いました。
 電気窯は温度設定が容易で安全度も高く、扱いやすい相棒でした。
 夜中に作品を思いついて起きだし、寒い作業場で暖房も入れずに轆轤びきをして、夫を心配させたことも
 ありました。「本当に好きなんだね」と夫が半ば呆れ気味に言いながらも
 「そんなに好きなものがあれば、老後は困らないね、僕も仕事を辞めたらやってみようかな」と
 本音らしい発言をしていたことを思い出します。

  やきものを通してお人や作品、出来事など、いろいろな場面で素敵な出会いがありました。
 あんなこと、こんなことの思い出やこれから起こるかもしれない出来事などを、このページに綴っていきたいと
 思っています。
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